68年5月15日以降:オデオン開放

5月15日夜に始まったオデオン座の占拠と開放は、ソルボンヌ、そして写真はないが、数々の政治的ポスターの発行所となったボナパルト外の美術学校の占拠とともに、68年5月のカルチエ・ラタン闘争の文化的シンボルとなって。俳優養成学校の生徒たちが主導したオデオン座占拠は、当日午後ナンテールで決定され、3月22日運動からはポール・ヴィリリオも占拠に加わったらしい。当時オデオン座のディレクターは、役者兼演出家のジャン=ルイ・バロー。バロー指揮下の60年代のオデオン座は、クローデル、イヨネスコ、ベケット、デュラス、ジュネといった同時代の芝居や、西川さん夫妻が5月にわずかに先立って立ち会い、感激した近松の『曾根崎心中』の人形浄瑠璃(4月末~5月初の「世界演劇祭」の一環)を催す、「革新的」で「国際的」な劇場として知られた。しかし、オデオン座占拠に向かった学生たちに言わせれば、そんな「革新性」、「国際性」をパリの文化的市民に向かって「ウリ」にする国立劇場自体の存在が、「ブルジョワ的」かつ「反革命的」にほかならない。長引く交渉の過程で、4000人にふくれあがった学生たちを前に、最終的にバローも「一人の役者」として学生たちに賛同を表明し、こうして6月18日まで一月以上に及ぶ、オデオン座占拠・開放が始まった。以後、バローはこの占拠のあいだ―劇場の管理者としての配慮もあったのだろう―、時の文化大臣アンドレ・マルローの要望も拒否して学生たちに同伴し、オデオン座からの学生たちの排除後、6月には更迭される。このオデオン座占拠も、役者・音楽家・劇場関係者等の全面的なストライキとともに展開した。

西川さん夫妻は、20日には占拠・開放中のオデオン座に入り、この「元劇場」と化した「自由な演壇」で、満場の来場者たちのなか、老若男女、学生から劇場など訪れたことなどなさそうな労働者まで、さまざまな人たちが次々に語りだし、「革命」や「ブルジョワ性」について、あるいは5月の運動の現状について、議論する場に居合わせている。オデオン占拠・開放は、国立劇場という「表象」=「代表」の特権的装置の只中で、<68年5月>が、舞台と客席、見る者と見られる者、代表する者と代表される者の秩序を転倒しようとするものであることをはっきりと示す出来事だった。その意味で、客席にカメラを向ける西川さんの視線自体が、このオデオン占拠・開放という出来事のまったき一部分だったと言える。

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