68年5月13日以降:<5月>のソルボンヌ

学生によるソルボンヌ占拠は13日夜に始まる。それに先立つ11日土曜日深夜、ポンピドゥー首相は緊急のテレビ演説で、週明け13日からのソルボンヌ封鎖解除とカルチエ・ラタンからの警察隊の撤退、関連の逮捕者の釈放を予告していた。しかし、学生・大衆の運動はこの譲歩で沈静化するどころか、ますます盛り上がる。短期間のうちに事態はもはや単なる「大学紛争」の域をはるかに凌駕していたからだ。同じ11月には、学生と教職員の諸組合、そして相対立する労組のナショナルセンターCGTとCFDTが一致して、ゼネストを呼びかけていた。そのゼネストの始まる13日のパリでは、共和国レピュブリック広場からダンフェールの広場まで―メーデーのデモの出発点からカルチエ・ラタンのデモの出発点へ―、参加者数100万人の怪物的なデモが行われる(68年当時のパリ市の人口は約260万人)。ソルボンヌ占拠は、このデモのあとソルボンヌにとって返した学生たちによって開始された。6月17日まで一月超に及ぶ占拠・開放の始まりである。

14日以来、ソルボンヌでは占拠委員会メンバーが毎日選出され、フランス全土の大学・地区・企業と軌を一にして、数多くの行動委員会が作られた。日夜開かれた集会では、学年末の6月を控えて切迫する国家試験の阻止から、大学の組織や運営、さらには革命戦略までもが、学外からの参加者とともに議論される。15日には学生主導でオデオン座占拠も始まった。16日にUNEFが示したプログラムは、「学生権力」の確立、学部自治、芸術・メディアへの闘争の拡大、そして「学生の戦いと労働者・農民の戦いの結合」を謳っていた。ソルボンヌの中庭にはさまざまな新左翼諸党派の「スタンド」が林立し、壁面は集会の告知や貼り紙で埋まり、構内では自主授業やピアノ演奏、芸術作品の展示など、目白押しの企画が続く。この間、13日以来のゼネストは拡大を止めず、20日には1000万人がストライキ―あるいは労働の継続不可能な状態―に入る未曽有の事態となる(当時のフランスの総人口は約5000万人)。パリでは交通機関が全面的にストップし、ガソリンが不足し、最終的には都市インフラ(電気・ガス・銀行・食料供給・ゴミ収集 etc.)維持にも支障を来たすに至った。

15日以降、西川さんは占拠・開放中のソルボンヌにも足繁く通っている。この一時期の写真は、ある種無時間的で、時系列をはっきりさせるのは難しい。21日には占拠委員会に出向いて撮影許可まで取っているが、それ以前から撮影はしていたようだし、それ以後も認可賞の提示を求められることはなかったというからなおさらである。ここでは、写された貼り紙などの情報から時系列を推定しながら、テーマ別に写真を配列しておこう。

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